5. ごちゃごちゃ

わかりやすい標語が世の中に溢れている。「筆圧に注意すれば成績があがる」であったり、「東大生のノートは美しい」であったり。参考書などではこういう裏技をすれば問題が解けるであったりとか。

わかりやすい言葉は、なるほど!とインパクトを与えるのに有効だが、安易な言い回しは本質を隠してしまう。美しいノートを取るから勉強ができるようになるわけではない。授業を聞いている時に、内容を頭の中で頑張って理解して、それぞれのつながりを整理整頓した結果ノートが綺麗になるのだ。つまり、ノートを綺麗に取る過程で学習をしているわけで、綺麗なノートは副生産物にすぎない。ノートが汚くて賢い人は、汚く書いて考えて、そこで学習をしているわけである。その学習を本質を理解せず、安い標語を鵜呑みにしてしまっても成績は上がるわけではないのである。

何か教える時もそうだ。多くの人は模範解答を黒板に書いて教えることを「教える」と呼ぶだろう。少なくとも、解答を1から丁寧にという人が多いように感じる。もちろん、多くの生徒を教えるには限界があるが、例えば一人を教える時はまず問題を解いているのをみて、この人はどういう考えかたをして、何を理解していないのかということを、解答を通じて考える。そして、ここが理解できていないということがあればそこを説明し、そこが分かっていないと解けない問題を作って解くようにいう。間違っているところはこうするんだよ、という説明は十分ではなく、なぜ「こうする」のかがわかるまで同じ問題が次出た時に同じところでつまづいてしまう。つまり、本質は「なぜこうなるかが分からない」のであって、「こうすればできるのに」ではないのだ。

勉強方法について聞かれた時に、僕はどういった学びかたをするべきなのか。自分がどういったことが分かっていて、分かってないことをまず理解してから、それじゃあどう勉強したら効率的に勉強できるのかを考えようと説明を始める。ノートを綺麗に取るうえで勉強するのがいいタイプの人間か、ノートを汚く書いてもその書くという作業を通じて勉強するのがいいタイプの人間かわからないのに、ノートをどう書けばいいのかを説明できないのと同じだ。でも、そういったことを言っていると、聞いている方の顔は「ごちゃごちゃうるさい。早くもっとすぐにできるようなことを教えてくれ」となってくる。本質は度々歓迎されず、ゲームの裏技を求められる。僕はまた、自分の力の無さを嘆き、ため息をつく。