8. はいる、はいる。

この冬は学校の授業でVR(バーチャルリアリティー)のゲーム作りに明け暮れている。何十年も前からVRのプラットフォームを作ろうという人はいたが、今やっと、テクノロジーがVRを可能にするところまで来て、流行り始めている。

とは言え、まだまだ完璧とは言えず、VR酔いというものがある。例えば、車に乗っている時に、三半規管は曲がるときや加速、ブレーキの時に加速度を感じるが、目は車の中を見ているので目の情報と三半規管の情報が矛盾する。そうなると、体は毒が入ったから情報が矛盾している、吐き出せ!と吐き気を促す。VRも同じで、目は加速度を見ているのに、三半規管がそれを感じないから吐き出す。グーグルのエンジニアがCardboardやDaydreamを開発する時にはいつ吐いてもいいようにバケツを横に置いていたという。(ちなみに三半規管を直接刺激してVR酔いを無くすデバイスを開発している企業もある)

このVR酔いを促さないための注意点として、移動は一定速度で加速、減速はしないといったり、もしくは移動しないか移動はテレポーテーション形式にというものがある。VRの良さとして、現実では不可能を可能にするという点がある。スーパーパワーが一つの例だ。ちなみに、スーパーパワーを使えるのにテレポートでしか動けなかったり、まっったく動けないスーパーヒーローなんかいやしない。いや、待てよ、バッドマンも、ジェームズボンドもいつも敵に捕まって、動けなくなるじゃないか。じゃあそこから逃げ出すというコンセプトのゲームを作ろうと開発されたのがI expect you to dieという、数々の賞をとったゲームである。

そのゲームを開発した会社のCEOが言っていたが、今まであるゲームをVRに移すのは意味がない。VRはゲームのあり方を変えるのだ。例えば今までのゲームでは銃は打つもの、ナイフは切るものと役割が定まっていたが、例えばナイフをスクリュードライバーがわりにも使えるし、VRでは実際にそうしようという人が多かったと、現実にこうするということをなんでもできるようにしないといけない。逆に、現実に起こりうることが起きない場合は「やっぱり所詮フェイクだ」と没入感が一気になくなってしまうという。

VRに対し、ARはマイクロソフトのホロレンズが空間認識のレベルが高く半分実用化レベルまで来ているが、スクリーンが小さすぎる。スクリーン技術と画像認識の技術がもう少しすればARも可能になるだろう。VRやARがこれからのゲームをどう変えているかを考えると面白い。例えば、サッカー場でサッカーをするが、サッカーボールを使わずにARでサッカーボールを映し出し、実際に走り回るが、シュートは少林サッカーばりにできるようになったりしたら、半分スポーツ、半分ビデオゲームのようになるだろう。もしかしたら、ARサッカーのリーグなんかも生まれるかも知れない。

いずれにしよ、VRとARはこれからの人の活動を大きく変えてく可能性があり、すごく興味深い。

7.まなび、きわめる

大学での研究といっても様々な種類の研究がある。研究者、というとなんとなく思い浮かぶイメージがあるだろうが、時代の流れ的に社会における研究の位置付けが変わりつつあるように感じる。特に、基礎研究よりも社会を変えるという位置付けの研究が盛んになりつつある。

もちろん、どういった研究がいいとか悪いとかいう話ではない。宇宙や生命の誕生に迫る研究は、主に何がどうなっているのかが知りたいという知的好奇心を満たすためのもので、物事を解明するということが評価される。その発見が、案外病気の治療に役立ったりすることもあるだろうが、別にそれが目的となっているわけではないし、人類が全てを解明することはおそらく不可能と言っていいぐらいの時間がかかるだろう。そういう研究もあれば、癌やアルツハイマーの治療法の研究もあり、それはおそらく何十年というタイムスパンで確立されるものだろう。また、MITのメディアラボであるような、数ヶ月単位のプロジェクトで進めて行く研究もあり、そこでの研究はいわゆる一般人からは遠い最先端技術というよりは、社会にインパクトを与える概念の提示という種類の研究が多い。また、大学を通じて研究した内容から起業する人も増えて来ている。

ただ、研究者は、多くがこだわりが強く、特にメディアラボの研究は技術的にもっとちゃんとした方がいいんじゃないかという人もいるし、逆にその研究は遅すぎると、批判する人もいる。しかし、メディアラボでの研究が社会に与えている影響は無視できないし、基礎研究が学問の発展の基礎を支えていることは否定できない。目的のベクトルが違う研究を批判しあってもしょうがない。

社会における研究の立ち位置が変わっているいま、研究する上で、自分のしたい研究、する研究はどのような位置にあるのかを把握することが大事ではないか。また、大学が新しい研究施設を作る時も、ただ流行っているから人工知能の研究所を作るとかではなく、自分の大学は世の中をどのように変えたいのかを考えてから施設をつくると、大学の社会的役割が一層いいものになるのかなの思ったりもする。

6. ふぉーかす

孫正義2.0新社長学という本を読んで、集中することとは、いかに何かをしないことだ、といった内容が心に妙に刺さった。もちろん、それがメインの内容ではないし、文章中にヒョンと出て来ただけのことなのだが、その言葉が頭から離れない。

今は、大量消費の時代と言われているが、情報においてもいい。アマゾンは消費者の好きそうな商品をおすすめし、一つの商品を買うはずが、他の商品を見てしまっている。YouTubeは見てもらえれば見てもらうほどいいので、関連動画を横に並べ、一つの動画を見るつもりが何時間も色々なものを見てしまっている。

特にインターネットにおいては、一つのきっかけがあればそのサイトにできるだけ長くいさせようということを、賢い人たちが日々考えていて、消費者である僕はその戦略が正しいということを証明してしまうのである。ウェブサイトを開いた瞬間に、もう勝負は決まっているのだ。

では、そういった欲求からはどう逃げられるのかというと、そもそもサイトを開かないということがベストのように思える。サイトを開けてしまった時に、そこからのマーケティング戦略に抵抗するための自制心よりも、そもそも開かないでおくというのに必要な自制心の方がはるかに小さくてすむからだ。

話がずれてしまったが、集中とは何かを一つのことをするということと考えがちだが、裏を返せば何か一つ以外をしないということにもなる。では集中するための方法を考えた時に、「一つのことをじっくりする」ということではなく、「それ以外何も始めない」と考えれば、もう少し集中する方法として有効なものになるんじゃないかと思う。

5. ごちゃごちゃ

わかりやすい標語が世の中に溢れている。「筆圧に注意すれば成績があがる」であったり、「東大生のノートは美しい」であったり。参考書などではこういう裏技をすれば問題が解けるであったりとか。

わかりやすい言葉は、なるほど!とインパクトを与えるのに有効だが、安易な言い回しは本質を隠してしまう。美しいノートを取るから勉強ができるようになるわけではない。授業を聞いている時に、内容を頭の中で頑張って理解して、それぞれのつながりを整理整頓した結果ノートが綺麗になるのだ。つまり、ノートを綺麗に取る過程で学習をしているわけで、綺麗なノートは副生産物にすぎない。ノートが汚くて賢い人は、汚く書いて考えて、そこで学習をしているわけである。その学習を本質を理解せず、安い標語を鵜呑みにしてしまっても成績は上がるわけではないのである。

何か教える時もそうだ。多くの人は模範解答を黒板に書いて教えることを「教える」と呼ぶだろう。少なくとも、解答を1から丁寧にという人が多いように感じる。もちろん、多くの生徒を教えるには限界があるが、例えば一人を教える時はまず問題を解いているのをみて、この人はどういう考えかたをして、何を理解していないのかということを、解答を通じて考える。そして、ここが理解できていないということがあればそこを説明し、そこが分かっていないと解けない問題を作って解くようにいう。間違っているところはこうするんだよ、という説明は十分ではなく、なぜ「こうする」のかがわかるまで同じ問題が次出た時に同じところでつまづいてしまう。つまり、本質は「なぜこうなるかが分からない」のであって、「こうすればできるのに」ではないのだ。

勉強方法について聞かれた時に、僕はどういった学びかたをするべきなのか。自分がどういったことが分かっていて、分かってないことをまず理解してから、それじゃあどう勉強したら効率的に勉強できるのかを考えようと説明を始める。ノートを綺麗に取るうえで勉強するのがいいタイプの人間か、ノートを汚く書いてもその書くという作業を通じて勉強するのがいいタイプの人間かわからないのに、ノートをどう書けばいいのかを説明できないのと同じだ。でも、そういったことを言っていると、聞いている方の顔は「ごちゃごちゃうるさい。早くもっとすぐにできるようなことを教えてくれ」となってくる。本質は度々歓迎されず、ゲームの裏技を求められる。僕はまた、自分の力の無さを嘆き、ため息をつく。

4. 書いて、考えて。考えて、書いて

英語を中心にして生活をしていると、英語で考えることが割と増える。特に、英語で獲得した概念などを考える時、日本語では表すことができないので英語で考えざるを得ない。数学を考える時は数字や記号という言葉、図形を考える時は線や曲線、放物線という言葉を使って考える。言葉とは、コミュニケーションのための他に考えるために使う道具でもある。このブログを書く目的も、僕の考えがモヤモヤしているのを、言語化して整理をしようとするのが一つである。

英語を勉強する上で、「使える英語」と「使えない英語」と良く言われる。「使える英語」という時、僕たちは聞けたり話せたりする英語と言われる。それに加えて考えるための英語も含んで、コミュニケーションや考えるための道具としての英語が使える英語なのではないかと思う。一方「使えない英語」とはなんなのだろうか。僕は、「使えない英語」はそもそも英語ではないと思う。英語という暗号を解読するためのツール、つまり英語のそれぞれの単語がこういう意味で、それがこういうルールに則って並んでいるということを学んで、自分たちのわかる日本語に直そうというプロセスが、学校で学ぶ「使えない英語」ではないのか。つまり、和訳や英訳は暗号を解読して日本語に直したり、日本語を暗号に変換したりするという作業をしていて、時間がかかってしまう。だから、英語を聞くときに、解読の時間が足りなかったり、話す時に変換に戸惑ってしまう。英語を読んでいる時も、「使える英語」と「使えない英語」ではまったく違うことが起こっている。例えば、「辞書」という言葉を聞いた時に僕たちは辞書という言葉や辞書の写真を思い浮かべたりはしない。ただ辞書という概念を思い浮かべる。「使える英語」ではdictionaryと聞くと同じように概念を思い浮かべるが、「使えない英語」では「辞書」という日本語を思い浮かべる。そして、辞書という概念を思い浮かべるのだ。

話が横道に逸れてしまい、それがメインになるぐらいの勢いを得てしまったが、言いたいことは、言葉の本質はどういうことなのかということだ。深い考えを表すには深い言葉の表現が必要で、深い言葉には深い考えが宿っていると思う。だから、語彙力の低下は少し心配になる。数学で微分の表現方法がなくなってしまうと大変になってしまうだろう。言葉が足りないのでなんだかまとまらなくなってしまった。

3. ぐらぐら

映画を見ている時、主人公が自分にとって何も特にならないのに「正しいことがしたいから」と言って何かをしようとする時が一番好きだ。綺麗事でも、都合が良くても、正しいことをしようとしている人はかっこいいと感じてしまう。

一方で、ある有名人が不倫をしていた時に、「最低だ」という人たちがいる。別に不倫がいいとか悪いとかそういうことではない。ただ、「不倫はダメだ」という正しさを盾に、自分はあなたよりも偉いですよ、正しいですよという態度が見えて、違和感を感じてしまう。正しさを相手よりも優位に立つために使っているだけに思える。もしかしたら、「不倫をするなんて最低だ」とコメントをしたAさんは、飲み会で上司の「不倫ぐらいしないとやっていけない」という言葉に頷いているかもしれない。人を批判するための正しさになんの価値があるのだろう。たとえ圧倒的に立場が悪くても、自分の信念となる正しさにこそ価値があるのではないか。一貫性が何のは格好悪い。

とは言いながらも、こうやって書いている時点で、僕はある特定の集団を批判することになる。また、「正しさ」がぐらぐら、と崩れ始める。

2. 隠せ、隠せ

久しく会う友人や、新しく会う人と話していると、自尊心がニョキニョキと育ち出す。目の前にいる人に、自分の価値を伝えるべくどうにかしようとしている自分に気づく。あからさまに言っては偉そうに聞こえる。そうだ、この話をすればそっからこのトピックに飛んで、自分のことが話せるぞ。そういった具合だ。そして、あとで一人になった時に、また自慢をしてしまった、と後悔の念に追われる。マゼラン、コロンブスもびっくりの、大航海時代ならぬ、大後悔時代がやって来る。

おそらく、自慢を聞かされた人は、鼻くそが飛んで来るぐらいの迷惑を被り、ただ顔には笑顔を貼り付けて、はいはい、すごいねーーーーーーと返事をするのだろう。自分のちっぽけな自尊心を満たすために、僕は人に迷惑をかけるのだ。僕は〇〇で賞をとったりだとか、さりげなく英語を使って見たりだとか。ああ、くだらない。

例えば、英語が僕よりもできないけど、そこそこはできるという人がいたとして、その人が英語をみんなの前で披露したとしたら、僕の自尊心はとどまることを知らずに成長するだろう。はい、皆さん。僕の方が英語ができますよ!と。それを見せられている周りはどう反応すればいいのだろう。道を歩いていると、求めてもいないのにストリートミュージシャンに曲を歌われ、さらに他のストリートミュージシャンに自分の曲の方がいいとばかりにどや顔でもう一曲聞かされるようなものだ。自尊心は、満たす方の犠牲によって満たされる。

しかし、自尊心はゴキブリのごとくヒョンと現れる。その度に僕は汚いものを見せてはいけないと隠そうと努力し、結局は隠しきれずにいるのだ。恥ずかしい。